なぜMatrixは25年経っても色褪せないのか?

なぜMatrixは25年経っても色褪せないのか? —1986年生まれが大人になって気づいたこと—

25年ぶりにMatrixを観て震えた

Amazon Primeで何気なく選んだ『The Matrix』。金曜日の夜、特に予定もなく、「なんか映画でも観るか」という軽い気持ちだった。ランキング上位に表示されていたあの懐かしいポスター。黒いサングラスをかけたキアヌ・リーブスが、緑色のデジタル雨の中に佇んでいる。

「ああ、これか。昔流行ってたやつだよな」

1986年生まれの僕にとって、『Matrix』は1999年公開時には中学生。当時は映画の内容よりも、むしろ「パロディ」として記憶に残っている作品だった。バラエティ番組で芸人たちが真似していた「弾丸避け」のポーズ。学校でみんながやっていたあの「くねくね」とした動き。黒いサングラスが大流行して、コンビニでも売っていた時代。

「Matrix?知ってる知ってる、あれでしょ、弾丸を避けるやつ」

そんな軽い認識で、四半世紀ぶりに再生ボタンを押した。

しかし、136分後。僕はソファに座ったまま動けずにいた。

「これ、完全に預言書じゃないか…」

映画が終わった後、しばらく画面を見つめ続けていた。エンドクレジットが流れ、Amazonの「関連作品」の画面に切り替わっても、まだ現実に戻れずにいた。中学生だった僕には理解できなかった、いや、理解しようともしなかったあの映画の真の姿が、25年という歳月を経て、ようやく見えたのだ。

当時は「よくわからんけどすごいらしい映画」だった

時は1999年。平成11年。世紀末という言葉が日常的に使われ、「2000年問題」でコンピューターが暴走するかもしれないと大人たちが騒いでいた時代。僕は中学2年生で、携帯電話はまだ「ポケベル」から「PHS」に移行したばかり。インターネットは「テレホーダイ」で夜中にダイヤルアップ接続する時代だった。

『Matrix』が日本で公開されたのは9月11日。アメリカでの大ヒットを受けて、日本でも大々的に宣伝されていた。しかし、中学生の僕にとって、この映画は「映画館で観る」というよりも「テレビで話題になっている何か」という認識だった。

当時のメディアでの扱われ方を思い出してみる。

まず、圧倒的だったのは「弾丸避け」のパロディブームだった。『笑っていいとも!』では司会のタモリさんが真似をして、観客席が大爆笑に包まれた。『めちゃ×2イケてるッ!』では岡村隆史さんが完璧な弾丸避けを披露し、スタジオが「おおー!」という歓声に包まれた。『とんねるずのみなさんのおかげでした』では石橋貴明さんが「マトリックス〜」と言いながら謎のポーズを取り、木梨憲武さんがツッコミを入れる、という定番の流れがあった。

学校でも当然、このブームは浸透していた。休み時間になると、男子たちは廊下で弾丸避けごっこをしていた。上級生が「おい、マトリックスやってみろよ」と後輩に無茶振りする光景は日常茶飯事だった。体育の時間、バスケットボールのパスを避ける際に、わざとらしく弾丸避けのポーズを取る奴がいて、体育教師に怒られる、という出来事も珍しくなかった。

女子たちの間では、黒いサングラスがファッションアイテムとして流行していた。当時はまだ「コギャル」文化の全盛期で、茶髪に日焼けサロンで焼いた肌が主流だったが、『Matrix』の影響で一部の女子たちが黒いサングラスをかけて登校してくるようになった。もちろん、校則でサングラスは禁止されていたので、校門で先生に没収される、という光景もよく見かけた。

しかし、肝心の映画の内容については、誰もが「よくわからん」というのが正直なところだった。

「なんか、現実が偽物で、本当の世界は機械に支配されてるんだって」 「ネオって人が強くなって、悪い奴らと戦うんでしょ?」 「コンピューターの中の世界の話らしいよ」

そんな断片的な情報が、伝言ゲームのように学校内を駆け巡っていた。しかし、誰も本格的に「哲学的な意味」について語る者はいなかった。中学生には重すぎるテーマだったのかもしれない。それよりも、「かっこいいアクションシーン」と「すごい特撮技術」という表面的な部分ばかりが注目されていた。

当時の僕自身の記憶を辿ってみると、恥ずかしながら『Matrix』の「マ」の字も理解していなかった。友人たちとの会話でも、「マトリックス見た?」「まだ見てない」「すげーぞ、あれ」という程度の交流しかなかった。レンタルビデオ店で借りようと思ったこともあったが、新作料金が高くて、結局借りずじまい。テレビで放送された時も、なぜか他のことに夢中になってしまい、最後まで通して観ることはなかった。

つまり、当時の僕にとって『Matrix』は「流行っているらしい映画」「パロディでよく見る映画」「なんかすごいらしい映画」という、極めて曖昧な存在だったのだ。

「AI?何それ?」だった1999年の僕たち

今振り返ると、1999年という時代背景を理解することが、当時の僕たちが『Matrix』を理解できなかった理由を説明する鍵になる。

まず、「AI(人工知能)」という概念が、一般の人々、特に中学生にとってはSFの世界の話だった。1999年当時、コンピューターといえば「Windows 98」の時代。インターネットは「Yahoo!」で検索をして、「ホームページ」を見る程度。「ブログ」という概念すらまだ存在せず、個人が情報発信をするのは「個人ホームページ」を作るか、「2ちゃんねる」(1999年開設)に書き込むくらいだった。

携帯電話も「iモード」(1999年2月開始)が始まったばかりで、まだまだ「通話とメール」が主な機能。「カメラ付き携帯」すら一般的ではなく、写真を撮るのはデジタルカメラか、まだまだフィルムカメラが主流だった時代。

つまり、現在のように「AI」が日常生活に溶け込んでいる状況とは全く違う世界だった。「人工知能」といえば、せいぜい『ターミネーター』のスカイネットや、『2001年宇宙の旅』のHAL 9000といった、「映画の中の遠い未来の話」としてしか認識されていなかった。

だから、『Matrix』でモーフィアスが語る「21世紀の早い段階で、人工知能の進化により…」というセリフも、当時の僕たちには「遠い未来のSF設定」としか聞こえなかった。現実味がまったくなかったのだ。

「2000年問題」で大騒ぎしていた当時、コンピューターは「誤作動を起こすかもしれない不安定なもの」であり、「人間を支配するほど賢いもの」という発想はなかった。むしろ、「コンピューターは人間が管理しなければならない道具」という認識が強かった。

また、「バーチャルリアリティ(VR)」という概念も、1990年代に一度ブームになったものの、技術的な限界から実用的ではなく、「ゲームセンターの珍しいアトラクション」程度の認識だった。家庭用ゲーム機も「プレイステーション」や「セガサターン」の時代で、3Dグラフィックスが普及し始めたばかり。「仮想現実と現実の区別がつかなくなる」という状況は、文字通り「夢物語」だった。

そんな時代背景の中で、『Matrix』が描く「現実と仮想現実の境界の曖昧さ」「AIによる人類支配」「プログラムとしての世界」といったテーマは、中学生の僕たちには理解の範疇を超えていた。

パロディブームの裏側で見逃していたもの

しかし、今思えば、当時のパロディブームこそが『Matrix』の本質を見えなくしていた最大の要因だったかもしれない。

「弾丸避け」のポーズは確かにカッコよかった。スローモーションで弾丸が飛んでいく映像は、確かに革新的だった。黒いサングラスとロングコートのファッションは、確かにクールだった。しかし、これらの「表面的なかっこよさ」ばかりが注目され、肝心の「なぜそのようなことが可能なのか」「この世界はどういう仕組みになっているのか」という核心部分は、完全にスルーされていた。

当時のテレビ番組での扱われ方を振り返ると、『Matrix』は「すごいアクション映画」「革新的なCG技術を使った映画」として紹介されることがほとんどだった。哲学的なテーマや、社会に対するメッセージ性について語られることは稀だった。それもそのはず、バラエティ番組で哲学的な話をしても視聴者は楽しめないし、そもそも番組制作者側も、『Matrix』の深層部分を理解していたかどうか怪しい。

映画評論家や専門誌では、確かに深い分析がなされていたのかもしれない。しかし、中学生の僕たちが接するメディアは、テレビのバラエティ番組、学校での友人との会話、せいぜい少年漫画雑誌の映画紹介記事程度。そこで語られるのは「弾丸避けがすごい」「キアヌ・リーブスがカッコいい」という表面的な情報ばかりだった。

また、当時はまだインターネットでの情報収集が一般的ではなかった。現在のように、映画について詳細に解説しているウェブサイトや、ファンが考察を投稿する掲示板、YouTubeでの解説動画といったものは存在しなかった。映画の深い部分を理解するには、映画評論本を買って読むか、映画雑誌を購読するか、映画好きの大人と話をするか、といった限られた方法しかなかった。

中学生の僕たちにとって、そうした「本格的な映画理解」のハードルは高すぎた。だから、『Matrix』は「なんかすごいらしい映画」「みんなが真似している映画」という認識のまま、記憶の片隅に追いやられてしまったのだ。

25年後のAI時代に観る衝撃

そして2025年。僕は40歳に近づき、IT業界で働き、日常的にAI技術に触れている。ChatGPTやClaude(まさに今この文章を書くのに使っている)といったAIアシスタントとの対話は当たり前になり、VR技術は「Meta Quest」などのヘッドセットで誰でも体験できる。自動運転車の実験が進み、IoTデバイスが家中に溢れ、スマートフォンは「もう一つの脳」のような存在になっている。

そんな2025年の視点で『Matrix』を観直したとき、僕は愕然とした。

モーフィアスのセリフ:「はっきりとはわかっていないが、21世紀の早い段階で人工知能が進化し、人類との間にコンフリクトが起きた」

これは1999年の「SF設定」ではない。これは2025年の「現実の懸念」そのものだった。

ChatGPTが登場したのは2022年。わずか2年で、世界中の人々がAIと対話することが当たり前になった。Googleの検索結果にAIが生成した回答が表示されるようになり、多くの企業がAI技術を導入し、「AIに仕事を奪われる」という議論が真剣に交わされている。

「AI脅威論」は、もはやSFの話ではない。実在する技術者や経営者、政治家が、真剣に「AIの制御」について議論している。イーロン・マスクは「AIは人類にとって最大の脅威」と警告し、各国政府は「AI規制」の法整備を急いでいる。

VR技術も同様だ。「Meta(旧Facebook)」は「メタバース」の構築に数兆円を投資し、「仮想空間での生活」を現実のビジネスモデルとして推進している。「VRChat」では、現実の自分とは全く違うアバターで生活し、そちらの方が「本当の自分」だと感じる人々が現れている。

つまり、『Matrix』が描いた「現実と仮想現実の境界の曖昧さ」「AIによる人類のコントロール」という世界は、もはや「起こりうる未来」ではなく、「起こりつつある現在」なのだ。

中学生だった僕に教えてあげたいこと

もし、1999年の中学生だった僕に、2025年の現実を教えることができるなら、こう言いたい。

「その『Matrix』って映画、ただのSFじゃないよ。あれは26年後の未来を描いた預言書だ。弾丸避けごっこをしている場合じゃない。ちゃんと映画を観て、考えろ」

当時の僕は、『Matrix』の「赤い薬と青い薬」の意味を理解していなかった。モーフィアスがネオに差し出す二つの薬。赤い薬を飲めば真実を知ることになるが、その真実は辛く厳しいもの。青い薬を飲めば、快適な嘘の世界で生き続けることができる。

これは単なる「映画の設定」ではなく、現代社会を生きる僕たち全員に突きつけられた根本的な問いだった。

現在の僕たちは、毎日のようにこの選択を迫られている。SNSのアルゴリズムが作り出す「快適な情報バブル」の中で生きるか、それとも不快でも真実に向き合うか。AI技術の便利さを享受しながら思考停止するか、それともAI技術が社会に与える影響について真剣に考えるか。

『Matrix』は、そうした現代社会の本質的な問題を、1999年の時点で鋭く予見していたのだ。

パロディの向こう側にあった真実

当時のパロディブームを思い返すと、なんとも皮肉な気持ちになる。僕たちは「弾丸避け」を真似しながら、実際には『Matrix』が警告していた「思考停止」の状態にあった。表面的な「かっこよさ」に惑わされて、肝心のメッセージを見逃していた。

モーフィアスが語る有名なセリフがある。

「マトリックスとは何か?それは制御だ。マトリックスは夢の世界だ。人々をコントロールするために作られた世界だ」

このセリフを、現代のSNSやプラットフォーム企業の戦略と重ね合わせてみる。Google、Apple、Facebook(Meta)、Amazon、Microsoftといった巨大IT企業は、僕たちの日常生活のあらゆる側面をデータとして収集し、アルゴリズムによって僕たちの行動を予測し、コントロールしようとしている。

僕たちは、自分では「自由に選択している」と思いながら、実際にはアルゴリズムによって巧妙に誘導された選択をしている。Amazonのレコメンド、YouTubeの関連動画、Instagramのタイムライン、Googleの検索結果。これらすべてが、僕たちの行動パターンを学習し、僕たちの欲望を刺激し、僕たちの時間と注意力とお金を奪うように設計されている。

これはまさに、『Matrix』が描いた「人間がエネルギー源として利用されている」状況の現代版ではないだろうか。

「知らなかった」では済まされない時代

2025年現在、僕たちはもはや「知らなかった」では済まされない時代を生きている。AI技術の発展、プライバシーの問題、情報操作の危険性、デジタル格差の拡大。これらの問題について「無知」でいることは、『Matrix』でいうところの「青い薬」を選び続けることに等しい。

しかし、『Matrix』が素晴らしいのは、単に「現実は厳しいぞ」と警告するだけでなく、「それでも戦う価値がある」というメッセージも込められていることだ。ネオは真実を知った後、辛い現実と戦うことを選ぶ。その戦いは困難で、時には絶望的に見えるが、それでも彼は戦い続ける。

現代の僕たちも同じ選択に直面している。AI技術やデジタル社会の問題点を知ったとき、「知らなかった方が楽だった」と思うかもしれない。しかし、知ってしまった以上、僕たちには責任がある。次の世代により良い世界を残すために、今できることをする責任がある。

映画館で観たかった

25年ぶりに『Matrix』を観終えて、最も強く感じたのは「当時、映画館で観ていればなあ」という後悔だった。

あの巨大なスクリーンで、爆音のサラウンドシステムで、暗闇の中で集中して観ていたら、中学生の僕でも何か感じるものがあったかもしれない。少なくとも、「弾丸避けごっこ」だけで終わることはなかったかもしれない。

しかし、同時に思うのは、「でも、当時の僕には理解できなかったかもしれない」ということだ。AI技術もVR技術も、スマートフォンもSNSも存在しない1999年に、現在のデジタル社会の問題点を理解することは、どんなに聡明な中学生でも困難だったろう。

『Matrix』の真の価値は、25年という時間を経て、ようやく理解できるものだったのかもしれない。

だからこそ、この記事を書いている。同じように「パロディでしか知らなかった」という人たちに、「今こそ、ちゃんと観直してみませんか?」と提案したい。きっと、新たな発見があるはずだ。

1999年と2025年。その間に横たわる26年という歳月が、『Matrix』を「単なるSF映画」から「現代社会の教科書」へと変化させた。僕たちが生きている今この瞬間こそが、『Matrix』を真に理解する最適なタイミングなのかもしれない。