なぜMatrixは25年経っても説得力があるのか? —ノーラン作品との決定的な違い—
二人の天才監督、正反対のアプローチ
『Matrix』を観終えた僕が最初に思い浮かべたのは、なぜかクリストファー・ノーラン監督の作品だった。同じように「複雑で知的な映画」を作る監督でありながら、なぜ『Matrix』の方が感情に訴えかける力が強いのか。この疑問が、この記事を書く最大の動機となった。
ノーラン監督は現代映画界で最も尊敬される監督の一人だ。『インセプション』『インターステラー』『テネット』『オッペンハイマー』など、どの作品も技術的に革新的で、知的に刺激的で、視覚的に圧倒的だ。しかし、なぜか心の奥深くまで届かない。「すごいけど、なんか距離感がある」という感覚を抱く観客が多いのも事実だ。
一方、『Matrix』は確かに複雑で哲学的だが、同時に深く感情的でもある。ネオの成長に涙し、モーフィアスの言葉に震え、トリニティの愛に心を動かされる。知的好奇心と感情的共感が同時に満たされる。
この違いはどこから生まれるのだろうか?
設計思想の根本的な違い —「正確性」vs「真実性」—
答えは、それぞれの作品の「設計思想」にある。
ノーラン的アプローチ:「正確性」への執着
ノーラン監督の作品づくりには、一貫した特徴がある。それは「科学的・歴史的正確性への執着」だ。
『インターステラー』を制作する際、ノーランは理論物理学者のキップ・ソーンを専門アドバイザーとして招いた。ブラックホールの描写は、当時の科学的知見に基づいて可能な限り正確に描かれた。重力による時間の遅れも、相対性理論に基づいて数学的に計算された。
『ダンケルク』では、実際の海岸で撮影し、当時と同じ船を使い、可能な限り史実に忠実に再現された。『オッペンハイマー』では、膨大な資料を調査し、実在の人物の発言や行動を可能な限り忠実に再現した。
この姿勢は確かに素晴らしい。科学的に正確で、歴史的に忠実な映画を観ることで、観客は「学び」を得る。知識が増え、理解が深まる。
しかし、この「正確性への執着」が、時として作品の感情的な力を削いでしまう。
『インターステラー』で、主人公のクーパーが娘に会いたいと願う感情よりも、「重力方程式を解く」という科学的課題の方が重要視される。『オッペンハイマー』で、原爆開発に関わる科学者の心の葛藤よりも、「史実の正確な再現」の方が優先される。
結果として、観客は「勉強になった」と感じるが、「心を揺さぶられた」とは感じにくい。登場人物の感情よりも、「正確な情報の伝達」が優先されてしまうからだ。
Matrix的アプローチ:「真実性」への探求
一方、『Matrix』のアプローチは全く違う。ウォシャウスキー姉妹が最優先したのは「科学的正確性」ではなく「真実性」だった。
「真実性」とは何か?それは「人間の心の真実」「存在の真実」「現実の真実」といった、科学では測定できない種類の真実だ。
『Matrix』の世界設定には、科学的に見ると無理がある部分が多い。人間の身体をエネルギー源として利用するのは、熱力学的に非効率だ。意識を完全にデジタル化するのは、現在の脳科学では不可能だ。「思考の限界が物理的限界になる」という設定も、科学的根拠はない。
しかし、これらの「科学的不正確さ」は、作品の価値を全く損なわない。なぜなら、ウォシャウスキー姉妹が伝えたかったのは「科学的事実」ではなく「存在論的真実」だったからだ。
「現実とは何か?」「自由とは何か?」「人間の尊厳とは何か?」
これらの問いに対する答えは、科学的な正確性では測れない。心の奥深くで「真実だ」と感じられるかどうかが重要だ。
セリフの質の違い —「説明」vs「洞察」—
この根本的な違いは、セリフの質にも現れる。
ノーラン作品のセリフ:説明的で情報的
ノーラン作品のセリフは、しばしば「説明的」になる。複雑な科学的概念や歴史的背景を観客に伝えるために、登場人物が「説明役」を担う。
『インセプション』の例: 「夢の中の時間は現実よりもずっと長く感じられる。第一階層では1時間が現実の20分。第二階層では1時間が現実の1分…」
これは確実に情報を伝える効率的なセリフだが、「人間が自然に話す言葉」としてはやや不自然だ。観客に情報を伝えることが最優先で、キャラクターの感情や人間性は二の次になっている。
『テネット』の例: 「時間の逆行は情報のエントロピーを逆転させる。未来から過去への因果関係が…」
専門用語が多用され、科学的正確性は保たれているが、感情的な響きに欠ける。観客は「理解しよう」として頭で考えるが、心で感じることは難しい。
Matrix作品のセリフ:洞察的で詩的
一方、『Matrix』のセリフは「洞察的」だ。科学的説明よりも、存在論的洞察を優先する。
モーフィアスの有名なセリフ: 「現実とは何だ?現実をどう定義する?もし現実というのが感じることができるもの、匂いを嗅ぐことができるもの、味わうことができるもの、見ることができるもののことだとすれば、その『現実』とは単に君の脳が解釈している電気信号に過ぎない」
これは科学的説明ではない。哲学的洞察だ。正確な情報を伝えることよりも、深い気づきを促すことを重視している。観客は「なるほど、そういう仕組みか」と理解するのではなく、「うわ、確かにそうかもしれない」と感じる。
オラクルのセリフ: 「君が探しているのは答えじゃない。既に答えは知っている。君が探しているのは、その答えを信じる理由だ」
これも深い人間理解に基づく洞察だ。人間の心理の本質を突いていて、映画の文脈を超えて人生の様々な場面に応用できる普遍的な真理が含まれている。
キャラクター描写の違い —「機能」vs「人間性」—
ノーラン作品のキャラクター:機能優先
ノーラン作品の登場人物は、しばしば「物語の機能」として描かれる。科学的説明をする役、歴史的背景を説明する役、複雑なプロットを動かす役、といった具合に。
『インセプション』のアーサー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)は「夢の設計士」として機能するが、彼の個人的な動機や内面的な葛藤はあまり描かれない。『インターステラー』のDr.マン(マット・デイモン)は「科学者の孤独と狂気」を表現する機能として登場するが、やはり人間的な深みに欠ける。
これは脚本構造的には効率的だが、感情的な共感を得にくい。観客は登場人物を「人間」として見るよりも、「物語の駒」として見てしまう。
Matrix作品のキャラクター:人間性優先
『Matrix』の登場人物は、まず「人間」として描かれ、その後で「物語の機能」が付与される。
ネオ(キアヌ・リーブス)は「救世主」である前に、「自分の存在意義に悩む普通の人間」だ。彼の成長過程では、超能力の習得よりも、自己受容と他者への愛が重視される。
モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)は「指導者」である前に、「深い失望と希望を抱えた人間」だ。彼の過去の失敗(前の「救世主」候補への失望)が、現在の行動に深い影響を与えている。
トリニティ(キャリー=アン・モス)は「戦士」である前に、「愛に飢えた女性」だ。彼女の戦闘能力よりも、ネオへの愛情の方が物語の核心になっている。
だからこそ、観客はこれらのキャラクターに感情移入しやすい。彼らは「機能」ではなく「人間」として存在している。
映像言語の違い —「技術展示」vs「感情表現」—
ノーラン作品の映像:技術的精密さ
ノーラン監督の映像は技術的に極めて精密だ。IMAX撮影、実用特殊効果、複雑な時系列構造。どれも映画技術の最先端を行く素晴らしいものだ。
しかし、時としてこの「技術的精密さ」が目的化してしまう。『テネット』の逆行シーンは確かに技術的には驚異的だが、「すごい技術だ」という感嘆は得られても、深い感動は得にくい。
観客は「どうやって撮影したんだろう?」と考えるが、「この映像が何を表現しているのか?」については考えが及ばない。技術が目的化し、表現が手段になってしまっている。
Matrix作品の映像:感情的象徴性
『Matrix』の映像技術も革新的だったが、常に「何かを表現するため」に使われていた。
「弾举避け」は単なる技術的見せ場ではなく、「現実の物理法則を超越する」という意味を表現していた。スローモーションは「時間認識の変化」を、360度回転撮影は「視点の転換」を象徴していた。
緑色のデジタル雨は「データの世界」を表現し、赤と青の薬は「選択の重要性」を象徴し、鏡のシーンは「現実と虚構の境界」を視覚化していた。
つまり、映像技術は常に「感情的・哲学的メッセージ」を伝える手段として使われていた。観客は「すごい技術だ」と感じると同時に、「深い意味がある」と感じることができた。
構造の違い —「パズル」vs「神話」—
ノーラン作品の構造:知的パズル
ノーラン作品の多くは「知的パズル」の構造を持っている。複雑な時系列、入れ子状の現実、謎解き要素。観客は「理解する」ことに集中し、「感じる」ことが二の次になりがちだ。
『メメント』は記憶障害の主人公の主観を表現する革新的な構造だったが、同時に「パズルを解く」楽しみが前面に出すぎて、主人公の痛みや絶望が薄れてしまった。
『インセプション』も多層的な夢の構造は知的に刺激的だったが、「どの階層にいるのか?」「誰の夢なのか?」を理解することに観客の注意力が集中し、感情的な物語が埋もれてしまった。
Matrix作品の構造:現代神話
『Matrix』の構造は「現代神話」だ。古典的な「英雄の旅」の構造を現代的に翻案している。
召命(赤い薬の選択)→ 拒絶(「私は救世主じゃない」)→ 師との出会い(モーフィアス)→ 試練(訓練プログラム)→ 死と再生(エージェント・スミスとの戦い)→ 帰還(現実世界での活躍)
この構造は人類が何千年も語り継いできた物語の原型に基づいている。だからこそ、文化や時代を超えて理解され、感動される。
観客は「理解する」前に「感じる」ことができる。論理的思考よりも、感情的・直感的理解が優先される。
テーマの普遍性 —「時事的関心」vs「永続的問い」—
ノーラン作品のテーマ:時事的関心
ノーラン作品が扱うテーマは、確かに現代的で重要だが、時事的な関心に基づいている場合が多い。
『ダークナイト』のテロリズムは9.11後のアメリカ社会の関心事だった。『インターステラー』の環境問題は気候変動への現代的関心だった。『オッペンハイマー』の核兵器は現代の核拡散問題への関心だった。
これらのテーマは確かに重要だが、時代が変われば関心も変わる。10年後、20年後には、それほど切実な問題ではなくなっているかもしれない。
Matrix作品のテーマ:永続的問い
『Matrix』が扱うテーマは、人類が有史以来考え続けている永続的な問いだ。
「現実とは何か?」「自由とは何か?」「人間の尊厳とは何か?」「真実を知る勇気はあるか?」「愛は全てを超越するのか?」
これらの問いは、古代ギリシャの哲学者も、中世の神学者も、近世の啓蒙思想家も、そして現代の僕たちも考え続けている。時代や文化が変わっても、これらの問いの重要性は変わらない。
だからこそ、『Matrix』は25年経っても古くならない。むしろ、技術の発展により、これらの問いはより切実になっている。
感情的距離感の違い —「観察者」vs「参加者」—
ノーラン作品:観察者としての体験
ノーラン作品を観る時、観客は「観察者」の立場に置かれることが多い。複雑な物語を「理解しよう」として、客観的に分析する立場だ。
『インセプション』で観客は「どの階層の夢なのか?」を分析する。『テネット』で観客は「時間の流れはどうなっているのか?」を理解しようとする。『オッペンハイマー』で観客は「歴史的事実は何だったのか?」を学習する。
これは知的には刺激的だが、感情的には距離がある体験だ。観客は物語の「外側」から観察している感覚になる。
Matrix作品:参加者としての体験
『Matrix』を観る時、観客は「参加者」の立場に置かれる。ネオと一緒に真実を発見し、ネオと一緒に成長し、ネオと一緒に戦う。
「赤い薬と青い薬」の選択を迫られる時、観客も一緒に選択を迫られる。ネオが現実の厳しさに直面する時、観客も一緒に衝撃を受ける。ネオが愛に目覚める時、観客も一緒に感動する。
観客は物語の「内側」に引き込まれ、登場人物と一体化する。これが深い感動を生む。
文化的影響の違い —「批評的評価」vs「大衆的浸透」—
ノーラン作品:批評家に愛される芸術
ノーラン作品は批評家や映画関係者から高く評価される。技術的革新性、知的複雑さ、芸術的完成度。どれも映画芸術として最高水準だ。
しかし、一般大衆への文化的浸透度は限定的だ。『インセプション』の「夢の中の夢」という概念は話題になったが、日常会話で引用されることは少ない。『テネット』の逆行という概念も、映画ファン以外には浸透していない。
Matrix作品:大衆文化に深く浸透
『Matrix』は批評的評価も高いが、それ以上に大衆文化への浸透度が圧倒的だ。
「赤い薬・青い薬」は現代でも政治的議論で頻繁に引用される。「マトリックス」は現実逃避や洗脳を表す一般的な用語になった。「弾丸避け」は今でもパロディされ続けている。
これは『Matrix』のメッセージが、専門的知識がなくても理解できる普遍性を持っているからだ。高度な科学知識や映画的教養がなくても、人間として生きていれば理解できる真理が込められている。
創作アプローチの本質的違い —結論—
この分析を通じて見えてくるのは、ノーラン監督と『Matrix』のウォシャウスキー姉妹の創作アプローチの本質的違いだ。
ノーラン的アプローチ:「外から内へ」 科学的事実・歴史的事実 → ストーリー構築 → 人間ドラマ → 感情的共感
Matrix的アプローチ:「内から外へ」 人間的真理・哲学的洞察 → 象徴的表現 → 世界観構築 → 技術的実現
ノーランは「外側」(客観的事実)から始めて「内側」(主観的感情)に向かう。『Matrix』は「内側」(主観的真理)から始めて「外側」(客観的表現)に向かう。
どちらが優れているかではない。両方とも素晴らしいアプローチだ。しかし、「心に深く届く」という点では、「内から外へ」のアプローチの方が有利なのかもしれない。
人間は理性的な存在である前に、感情的な存在だからだ。
時代を超える物語の条件 —Matrixが示す創作の未来—
25年という時間が証明したもの
2025年7月のこの夜、Amazon Primeで『Matrix』を観終えた僕は、一つの確信を得た。
本当に価値のある作品は、時間という最も厳しい審査員によって選別される、ということだ。
1999年から2025年までの25年間。この間に、どれだけ多くの映画が作られ、どれだけ多くの作品が忘れ去られていっただろうか。技術的に革新的だった作品、興行的に成功した作品、批評的に絶賛された作品。それらの多くが、今では「当時はすごかった」という過去形で語られている。
しかし『Matrix』は違う。25年経った今でも、初めて観る人に衝撃を与え続けている。それどころか、AI技術やVR技術の発展により、この映画のメッセージはより切実になっている。
これは偶然ではない。『Matrix』には、時代を超える物語の条件が揃っていたのだ。
条件1:普遍的なテーマ —人間の根本的な悩みを扱う—
時代を超える物語の第一条件は、普遍的なテーマを扱うことだ。
『Matrix』が扱っているのは「現実とは何か?」「自由とは何か?」「愛とは何か?」という、人間が有史以来考え続けている根本的な問いだ。これらの問いは、技術が発展しても、社会が変わっても、文化が変わっても、その重要性を失わない。
逆に、時事的な問題や一時的な流行だけを扱った作品は、時間と共に価値を失う。2000年問題を扱った作品は2001年以降意味を失い、特定の政治家を風刺した作品はその政治家の引退と共に古くなる。
普遍的なテーマを選ぶということは、「今の観客」だけでなく「未来の観客」のことも考えるということだ。
条件2:象徴的な表現 —抽象的概念を具体的に描く—
普遍的なテーマを扱うだけでは不十分だ。そのテーマを「観客が感じられる形」で表現する必要がある。
『Matrix』の天才的な点は、抽象的な哲学的概念を具体的な象徴で表現したことだ。
「選択の重要性」→「赤い薬と青い薬」 「現実と虚構の境界」→「鏡のシーン」 「洗脳からの覚醒」→「デジタル雨」 「システムへの反抗」→「黒いサングラスとロングコート」
これらの象徴は、高度な教育を受けていなくても、直感的に理解できる。文化や言語が違っても、映像を見れば意味が伝わる。だからこそ、世界中で理解され、愛され続けている。
条件3:感情的な核 —観客の心を動かす人間ドラマ—
哲学的に深く、象徴的に優れていても、感情的に響かなければ、作品は記憶に残らない。
『Matrix』の核心は、ネオの成長物語だ。平凡な男が自分の可能性に目覚め、愛する人のために戦い、世界を救う。この古典的な英雄譚の構造が、観客の感情を強く揺さぶる。
哲学的な要素は、この感情的な核を深める装置として機能している。ネオが「現実とは何か?」に悩むから、観客も一緒に悩む。ネオが「自由とは何か?」を理解するから、観客も一緒に理解する。
知的好奇心と感情的共感が同時に満たされる。これが『Matrix』の力の源泉だ。
条件4:技術的革新 —時代の最先端を行く表現手法—
時代を超える作品は、同時に「その時代の最先端」でもある必要がある。
『Matrix』は1999年時点で、映像技術の最先端を行っていた。「弾丸避け」のバレットタイム、「デジタル雨」のCG、「ワイヤーアクション」の撮影技法。どれもその時代の観客に「見たことがない」衝撃を与えた。
技術的革新は、作品に「その時代らしさ」を与えると同時に、「未来への扉」を開く。『Matrix』を観た多くのクリエイターが、「こんな表現があったのか」と衝撃を受け、新しい創作に挑戦した。
ただし、技術は手段であって目的ではない。『Matrix』の技術的革新は、すべて「哲学的メッセージを伝える」という目的に奉仕していた。
条件5:文化的タイミング —時代の不安と希望を反映—
偉大な作品は、その時代の「集合的無意識」を捉える。
『Matrix』が公開された1999年は、まさに「世紀末」だった。コンピューター技術の急速な発展、インターネットの普及、グローバリゼーションの進行。人々は新しい技術に期待すると同時に、「人間らしさを失うのではないか」という不安も抱いていた。
『Matrix』は、この時代の不安と希望を見事に映画化した。テクノロジーの脅威を描きながら、同時に人間の可能性も描いた。絶望的な現実を提示しながら、同時に希望への道筋も示した。
この絶妙なバランスが、当時の観客の心を深く捉えた。
条件6:解釈の余地 —観客の想像力を刺激する—
時代を超える作品は、「完全に説明しきらない」という特徴を持つ。
『Matrix』には、意図的に曖昧に描かれた部分が多い。マトリックスの外の「現実世界」は本当に現実なのか?ネオは本当に救世主なのか?オラクルの予言は運命なのか、それとも誘導なのか?
これらの疑問に対して、映画は明確な答えを提示しない。観客が自分で考え、自分なりの解釈を見つける余地を残している。
だからこそ、25年経った今でも議論が続いている。新しい技術や社会情勢に照らし合わせて、新しい解釈が生まれ続けている。作品は「完成された過去のもの」ではなく、「成長し続ける生きたもの」になっている。
創作者への教訓 —流行を追うな、真理を追え—
『Matrix』の成功から、現代のコンテンツ制作者が学べる教訓は何だろうか?
1. 流行ではなく、普遍性を追求せよ
今のトレンド、今のテクノロジー、今の社会問題。これらに焦点を当てた作品は、確かに「今の観客」には響く。しかし、「未来の観客」には響かない可能性が高い。
流行は必ず廃れる。しかし、人間の根本的な悩みや喜びは変わらない。愛、死、自由、正義、美、真実。これらのテーマは、古代から現代まで、そして現代から未来まで、人類の関心事であり続ける。
2. 技術は手段、メッセージが目的
最新のAI技術、VR技術、CG技術。これらの技術を使うこと自体は目的ではない。「何を伝えるために」その技術を使うのかが重要だ。
『Matrix』の「弾丸避け」は、単なる技術的見せ場ではなく、「現実の物理法則を超越する」というメッセージを表現するための手段だった。技術とメッセージが完全に一体化していたからこそ、観客に深い印象を残した。
現代のコンテンツ制作でも、まず「何を伝えたいか」を明確にし、その後で「どの技術を使うか」を決めるべきだ。
3. 観客を信頼せよ
現代のコンテンツは、しばしば観客を「馬鹿にする」。複雑な内容は避け、説明的なセリフを多用し、分かりやすい結論を提示する。
しかし『Matrix』は観客を信頼していた。複雑な哲学的問題を提示し、観客が自分で考えることを期待していた。結果として、25年経っても議論され続ける作品になった。
観客は制作者が思っているよりもずっと賢い。複雑で深い内容でも、真摯に表現すれば理解してくれる。
4. 感情と知性のバランスを保て
純粋に感情的な作品は一時的な感動を与えるが、長期的な価値を持ちにくい。純粋に知的な作品は長期的な価値を持つが、多くの人に届きにくい。
『Matrix』の成功は、感情と知性の絶妙なバランスにある。哲学的に深く、同時に感情的に響く。この両立こそが、時代を超える作品の条件だ。
5. 制約を創造性の源泉とせよ
『Matrix』は潤沢な予算で作られた作品ではない。制約の中で、独創的な解決策を見つける必要があった。その結果、「弾丸避け」という革新的な技術が生まれた。
現代のクリエイターも、「予算がない」「時間がない」「技術がない」という制約を嘆くのではなく、その制約の中でどう革新的なことができるかを考えるべきだ。
AI時代の創作論 —人間にしかできないこと—
2025年現在、AI技術がコンテンツ制作の分野に本格的に進出している。ChatGPTは文章を書き、Midjourney は画像を生成し、RunwayMLは動画を作成する。
この状況で、人間のクリエイターはどのような価値を提供できるのだろうか?
『Matrix』の例は、一つの答えを示している。AIが最も苦手とするのは、「なぜその作品を作るのか?」という根本的な動機の部分だ。
AIは「どう表現するか」については優秀だが、「何を表現したいか」については人間の領域だ。「現実とは何か?」という疑問は、AIには生まれない。なぜなら、AIは現実を疑う必要がないからだ。
つまり、AI時代において人間のクリエイターが持つべき価値は:
1. 哲学的洞察力 - 人間存在の根本的な問題を見つける力
2. 感情的共感力 - 他者の心の痛みや喜びを理解する力
3. 文化的感受性 - 時代の空気を敏感に感じ取る力
4. 創造的統合力 - 異なる要素を新しい形で組み合わせる力
技術的なスキルはAIに任せ、人間は「なぜ作るのか」「何を伝えたいのか」という根本的な部分に集中すべきなのかもしれない。
25年後の『Matrix』 —2050年に何を語るか—
2025年から更に25年後、2050年の人々は『Matrix』をどう見るのだろうか?
おそらく、その頃にはVR技術は現在では想像できないレベルまで発達しているだろう。脳とコンピューターの直接接続も実現しているかもしれない。『Matrix』の世界は、もはやSFではなく、現実の選択肢の一つになっているかもしれない。
そのとき、2050年の人々は『Matrix』を「古典的名作」として見るのか、それとも「危険な警告書」として見るのか。
いずれにせよ、この映画が50年という長期間にわたって価値を持ち続けることは間違いないだろう。なぜなら、この映画が扱っているテーマは、技術がどれだけ発展しても変わらない人間の根本的な問題だからだ。
終わりに —中学生だった僕へのメッセージ—
この記事を書き終えて、1999年の中学生だった僕に伝えたいことがある。
「君がパロディでしか知らないあの映画を、ちゃんと観てみろ。今は理解できなくても構わない。でも、いつか必ず理解できる日が来る。そして、その日が来たとき、君はこの映画が単なるエンターテイメントではなく、人生の教科書だったことに気づくだろう」
そして、現在の若いクリエイターたちにも伝えたい。
「流行を追いかけるな。データに頼るな。アルゴリズムに従うな。君の内なる声に耳を傾けろ。君が本当に伝えたいことは何だ?君が本当に表現したい真実は何だ?それを見つけることができれば、25年後にも愛される作品を作ることができる」
『Matrix』は僕たちに教えてくれた。真に価値のある作品は、技術の革新からではなく、人間の真実への洞察から生まれる、ということを。
赤い薬を飲む勇気を持とう。たとえ真実が辛くても、嘘の快適さよりも真実の厳しさを選ぼう。そして、その真実を次の世代に伝えていこう。
1999年、『Matrix』は僕たちに問いかけた。「現実とは何か?」
2025年、僕たちはその問いに答える番だ。
そして、その答えが、次の25年を決めるのかもしれない。
【終】
この記事は、1999年に中学生だった一人の男が、25年後に『Matrix』を観直して書いた、映画愛と創作論と人生論が混然一体となった長大な感想文である。科学的正確性よりも感情的真実を、流行よりも普遍性を、技術よりも思想を重視した結果、予想以上に長くなってしまった。しかし、それもまた『Matrix』的な「真実への執着」の現れだと、筆者は勝手に解釈している。
2025年7月19日深夜 某所にて